田母神俊雄氏が語る 日韓併合100年 本当に韓国を貶めたのか
朝鮮半島の本当の歴史(The true history of Korea Peninsula)
韓国朝鮮女性を守った日本【日韓併合の朝日報道記録】
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2011/4/21(木) 午前 10:53
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韓国の差別的身分制度を廃止した日韓合邦
http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/mobile-images/entry.gif?theme=/.shared-pleasy/themes/rich/sakura/韓国の差別的身分制度を廃止した日韓合邦
朝鮮はひどい差別社会であった。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1412090/1079909/thumbnail/jjtaro.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/03/25/s536pxkoreahistorygoban_game_in_s_2.jpg
明治43年(1910)年の日韓合邦は日本の武力による強制というのは真っ赤なウソで韓国人が望んだものですが、既得権益者はやはり抵抗しました。
李朝の身分制度は良民といわれる両班(貴族および科挙官僚を輩出する階層)・中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・常人(一般の農民)と賤民(奴婢、俳優、医者、巫女、白丁)がありました。両班は労働を蔑視し、国家と民衆を食い物にしていました。
李朝末期に朝鮮を訪ねたロンドン・デーリーミラーの記者マッケンジーが役人に聞きました。
記者「なぜ餓えている農民は土地を耕さずに放っておくのか」
役人「耕せば耕すほど税金を取られるからだ」
日韓合邦になるとこれらの身分制度は廃止になります。
両班一族の日記
「おおよそ乙巳の年以降、両班と村役人たちが劫奪(こうだつ・無理に奪うこと)を受け、窮民と平民が時宜を迎えたからか、村の常漢どもが両班を名乗り、昔の呼び名はどこかに消えてしまい、争いをする時には汝や君やと呼ぶ」
李朝の身分制度は良民といわれる両班(貴族および科挙官僚を輩出する階層)・中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・常人(一般の農民)と賤民(奴婢、俳優、医者、巫女、白丁)がありました。両班は労働を蔑視し、国家と民衆を食い物にしていました。
李朝末期に朝鮮を訪ねたロンドン・デーリーミラーの記者マッケンジーが役人に聞きました。
記者「なぜ餓えている農民は土地を耕さずに放っておくのか」
役人「耕せば耕すほど税金を取られるからだ」
日韓合邦になるとこれらの身分制度は廃止になります。
両班一族の日記
「おおよそ乙巳の年以降、両班と村役人たちが劫奪(こうだつ・無理に奪うこと)を受け、窮民と平民が時宜を迎えたからか、村の常漢どもが両班を名乗り、昔の呼び名はどこかに消えてしまい、争いをする時には汝や君やと呼ぶ」
村人たちが両班を軽んじてタメ口を使うようになったということです。両班にとっては日韓合邦は不快この上なかったでしょう。
制度を変えただけでは差別はなくならないのは当時も同じだったようで、衝平社という「白丁」の団体が身分開放の運動を1920年代に行っています。そして白丁の子弟が学校に通うようになります。すると両班が「うちの子供を白丁の子供と同じ教室で勉強させるのか!」と怒ります。そしてデモを繰り広げるようになります。しかし、警察機構により鎮圧されました。
中人も両班から厳しい差別を受けていました。彼らは文字も読み、計算ができる階級ですから、日韓合邦の環境変化に適応し、官界に進出したり商人として成功したり、地主として成功したりしました。子弟は日本に留学させることができました。そしてこの留学組から多くの知識人が輩出されることになります。近代朝鮮文学の父といわれる李光珠(イ・グアンス)は「民族改造論」を発表し、朝鮮文人協会を発足させました。崔南善(チェ・ナムソン)は朝鮮最初の新文化雑誌「少年」を刊行し、文化啓蒙運動を展開しました。経済学では白南雲(ペク・ナムン)が挙げられ、彼は「朝鮮社会経済史」を出版しました。(後に社会主義運動をおこす)
日韓合邦時代に現在の韓国の近代化の基礎が出来上がるわけですが、それは人的面では李朝時代に虐げられていた身分の人たちの進出によるものです。現在、韓国ではこれらの人の多くを親日(売国奴の意味)として糾弾されていますが、とんでもない話です。韓国民にとって恩人の方々です。
参考文献
文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著)/ 永島広紀(訳)
扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
株式会社国際企画「日韓2000年の真実」名越ニ荒之助(編著)
添付画像
碁を打つ政府高官の両班階級 1904年 (PD)
制度を変えただけでは差別はなくならないのは当時も同じだったようで、衝平社という「白丁」の団体が身分開放の運動を1920年代に行っています。そして白丁の子弟が学校に通うようになります。すると両班が「うちの子供を白丁の子供と同じ教室で勉強させるのか!」と怒ります。そしてデモを繰り広げるようになります。しかし、警察機構により鎮圧されました。
中人も両班から厳しい差別を受けていました。彼らは文字も読み、計算ができる階級ですから、日韓合邦の環境変化に適応し、官界に進出したり商人として成功したり、地主として成功したりしました。子弟は日本に留学させることができました。そしてこの留学組から多くの知識人が輩出されることになります。近代朝鮮文学の父といわれる李光珠(イ・グアンス)は「民族改造論」を発表し、朝鮮文人協会を発足させました。崔南善(チェ・ナムソン)は朝鮮最初の新文化雑誌「少年」を刊行し、文化啓蒙運動を展開しました。経済学では白南雲(ペク・ナムン)が挙げられ、彼は「朝鮮社会経済史」を出版しました。(後に社会主義運動をおこす)
日韓合邦時代に現在の韓国の近代化の基礎が出来上がるわけですが、それは人的面では李朝時代に虐げられていた身分の人たちの進出によるものです。現在、韓国ではこれらの人の多くを親日(売国奴の意味)として糾弾されていますが、とんでもない話です。韓国民にとって恩人の方々です。
参考文献
文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著)/ 永島広紀(訳)
扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
株式会社国際企画「日韓2000年の真実」名越ニ荒之助(編著)
添付画像
碁を打つ政府高官の両班階級 1904年 (PD)
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2012/4/14(土) 午前 0:21
2012/2/25(土) 午前 10:36
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ソウル大学の歴史(6番目の日本帝国 京城帝国大学)
ソウル大学の歴史(京城帝国大学)
前史
初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年(光武10年)まで11年経っても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた。
1910年(明治43年)の韓国併合後、朝鮮総督府は朝鮮人を対象とする第一次「朝鮮教育令」を公布(1911年)して普通教育を進めた。李氏朝鮮時代には一般人(特に女子)を教育する機関はなく、7割程度の朝鮮人が読み書きができず、また朝鮮では漢字が重視されハングルは軽視され教育されることはなかったため、ハングルを必修科目とした日本の教育により、朝鮮民衆にハングルが広まったとも言われる。
総督府はこのような事実に対し、1911年(明治44年)に改正私立学校規則を公布、1918年(大正7年)に書堂規則を公布し、より教育の統一性を図った。初等学校への就学率は併合時代の最末期で男子が93%、女子が70%代にまで急上昇した。
1918年(大正7年)、日本(内地)での高等学校令改正に直接的な影響を受けて、1920年(大正9年)に臨時教育調査委員会が設置され、その答申に基く「第二次朝鮮教育令」(1922年)により、朝鮮でも法的に大学設立が可能となった。
他方、「内鮮共学」対抗し、三・一独立運動以降の1920年頃からは、民族系の団体が私立の「朝鮮民立大学」設立の動きを見せ、また、在朝鮮アメリカ系宣教師団体が専門学校の大学昇格の動きもあった。このような日本の朝鮮統治への抵抗としての大学設立機運が朝鮮民衆の中で高まる中、かかる動きを制するために、日本政府及び朝鮮総督府主導下での大学設置が急がれることとなった。
- 1918年(大正7年) - 大正デモクラシー
- 1919年(大正8年) - 三・一独立運動
- 1920年(大正9年)12月 - 臨時教育調査委員会(総督府令第68号)が設置。
- 1922年(大正11年)2月 - 「第二次朝鮮教育令」(勅令第19号)が公布。「内鮮共学」の方針を採用。
- 1923年(大正12年)11月 - 朝鮮帝国大学創設委員会を組織
大学沿革
1929年(昭和4年)から大規模な水力発電所が鴨緑江とその支流に造られ、1930年代の朝鮮は工業化が急速に進んだこと、また、1931年(昭和6年)の満洲事変と1932年(昭和7年)の満洲国設立により、資源が豊富な満洲での工業化が見込まれたことなどから、高度な技術を持つ人材の需要が高まり、その供給源として1941年(昭和16年)には理工学部が設置された。
城大の教授陣は東京帝国大学卒を中心としており、他の帝国大学の設立期と似ている。日本語で専門教育の講義がなされる城大では、入学者は予め日本語での普通教育が必要であり、支那事変(日中戦争)勃発(1937年)後には「第三次朝鮮教育令」が公布(1938年)され、「内鮮教育の一元化」が唱えられた。
しかし、1942年(昭和17年)の朝鮮人の就学率は55%、日本語普及率は20%に留まり、城大でも医学部における1930年(昭和5年)の第1期卒業生が日本人43人と朝鮮人12人、城大全体では1937年(昭和12年)の日本人学生と朝鮮人学生の比率が70.2%と29.8%、1942年(昭和17年)のそれが60.4%と39.6%と、朝鮮人学生が過半を占めるに至らなかった。
- 1924年(大正13年)5月 - 朝鮮総督府所管の帝国大学として設立。大学予科(修業年限2年)を設置。
- 1926年(大正15年)5月 - 法文学部・医学部設置。
- 1934年(昭和9年)- 予科の修業年限を3年に延長。
- 1938年(昭和13年)- 理工学部の予科生が入学。
- 1941年(昭和16年)- 理工学部設置。
- 1941年(昭和16年)10月 - 授業年限の短縮令。太平洋戦争開戦で短縮期間は延長。
- 1942年(昭和17年)5月 - 高地療養研究所を附置。
- 1945年(昭和20年)6月 - 大陸資源科学研究所を附置。