田母神俊雄氏が語る 日韓併合100年 本当に韓国を貶めたのか

 
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海洋国家である日本は遠交近断外交政策をとるべきである。何も反 ­日国家である韓国、北朝鮮と付き合う必要はない。韓国が芸能人を ­動員して国を挙げて国家イメージを良くしようと
しているが、朝鮮人は世界中の嫌われ者である事実に変わりはない ­。
日本人に誇りに取り戻したいです。

朝鮮人が認めたがらない朝鮮人の歴史(其の壱)

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・日本統治前、多くの朝鮮人の女は乳を出し
、教育など存在しなかった。ハングルは話していたが、読み書きで ­きる人間は限られた。
すべて、日本がやってあげ、文化度を同じレベルに上げてあげた。 ­なのに。。。
現在の朝鮮人は「搾取」された恨んでいる。
恥ずかしくないのか?まったく、逆なのに。
youtubeで、プロパガンダを推進しているのは、主に、中国 ­・アメリカ・韓国にIDですね。作為を感じる動画が多いです。突 ­っつけばボロが出ますよ。
 

朝鮮半島の本当の歴史(The true history of Korea Peninsula)

韓国朝鮮女性を守った日本【日韓併合の朝日報道記録】

 
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cavefilm さんが 2011/08/12 にアップロード
日韓併合は実際はどうだったのでしょうか?
感情論だけ一方的に聞いても、さっぱり理解は深まりません。
しっかり、歴史を事実にそって学術的に?調べると有意義ですよ。

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  • 大清国属高麗国(李氏朝鮮のこと、清は李氏に朝鮮と名乗らせたが ­、国旗には大清国属高麗国と明記させた)は1894年の日清戦争 ­の日本の勝利後、日本と清国との間で結ばれた下関条約により、清 ­王朝を中心とした冊封体制からの離脱し独立国となった。その後1 ­897年に国号を大韓帝国、君主の号を皇帝と改めた。
    この時代、韓国はロシアと日本の対立に巻き込まれ、親日派や親露 ­派、親清派、攘夷派が混在し、その対立は深刻な無政府状態を生み ­出した。しかし日露戦争で日本が勝利すると、宮廷内で親日派の力 ­が大きく伸張し、李完用等は日本による韓国の保護国化・併合を主 ­張、一進会は「韓日合邦」を主張するようになった。1909年1 ­0月26日に『韓国の独立富強』を唱える併合反対派の伊藤博文が ­安重根によって暗殺されると、韓日合邦を要求する声明書が朝鮮人 ­によって出されるなど俄かに併合派が優勢となり韓国併合は決定的 ­なものとなった。1910年に韓国は日本と「韓国併合ニ関スル条 ­約」を結び、韓国を日本に併合した。李王家や貴族は李王家・朝鮮 ­貴族として華族制度に統合された。
    日本はアジアを欧米と対等にしたかった。
  • 朝鮮人が当時から現在に至るまで、変わらず悪行を働いていること ­など
    裏付けをもって理解することができました。
    家族や友人、そして何よりも子どもたちにこの事実を伝えるべく、 ­心新たにした次第です。貴重な資料をもとにした動画のご提供、あ ­りがとうございます。
     
 
 
 
こんな記事もあります
みんながどういう記事を書いているか見てみよう!
2011/8/25(木) 午前 10:43
... というか、ある重要な事実を一緒に隠蔽するためのお仲間になっ ... ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス 」 とあります。従って、 日韓併合条約が不法であるとする主張からすると、韓国皇帝は日本の天皇統治権を譲与していないことになり ...
2011/4/21(木) 午前 10:53
... 最終的な併合を達成したのである。」事実、列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど「合法的」手段を踏んでいなかった。(「アメリカの鏡・日本」ヘレン・ミアーズ)総督府(日本の朝鮮統治府)以前の李氏朝鮮社会は、司法行政の綱紀が乱れ ...

韓国の差別的身分制度を廃止した日韓合邦

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朝鮮はひどい差別社会であった。

 


 

 明治43年(1910)年の日韓合邦は日本の武力による強制というのは真っ赤なウソで韓国人が望んだものですが、既得権益者はやはり抵抗しました。
 李朝身分制度は良民といわれる両班(貴族および科挙官僚を輩出する階層)・中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・常人(一般の農民)と賤民(奴婢、俳優、医者、巫女、白丁)がありました。両班は労働を蔑視し、国家と民衆を食い物にしていました。

 李朝末期に朝鮮を訪ねたロンドン・デーリーミラーの記者マッケンジーが役人に聞きました。
記者
「なぜ餓えている農民は土地を耕さずに放っておくのか」

役人
「耕せば耕すほど税金を取られるからだ」

 日韓合邦になるとこれらの身分制度は廃止になります。

 両班一族の日記
「おおよそ乙巳の年以降、両班と村役人たちが劫奪(こうだつ・無理に奪うこと)を受け、窮民と平民が時宜を迎えたからか、村の常漢どもが両班を名乗り、昔の呼び名はどこかに消えてしまい、争いをする時には汝や君やと呼ぶ」
 村人たちが両班を軽んじてタメ口を使うようになったということです。両班にとっては日韓合邦は不快この上なかったでしょう。
 制度を変えただけでは差別はなくならないのは当時も同じだったようで、衝平社という「白丁」の団体が身分開放の運動を1920年代に行っています。そして白丁の子弟が学校に通うようになります。すると両班が「うちの子供を白丁の子供と同じ教室で勉強させるのか!」
と怒ります。そしてデモを繰り広げるようになります。しかし、警察機構により鎮圧されました。

 中人も両班から厳しい差別を受けていました。彼らは文字も読み、計算ができる階級ですから、日韓合邦の環境変化に適応し、官界に進出したり商人として成功したり、地主として成功したりしました。子弟は日本に留学させることができました。そしてこの留学組から多くの知識人が輩出されることになります。近代朝鮮文学の父といわれる李光珠(イ・グアンス)は「民族改造論」を発表し、朝鮮文人協会を発足させました。崔南善(チェ・ナムソン)は朝鮮最初の新文化雑誌「少年」を刊行し、文化啓蒙運動を展開しました。経済学では白南雲(ペク・ナムン)が挙げられ、彼は「朝鮮社会経済史」を出版しました。(後に社会主義運動をおこす)

 日韓合邦時代に現在の韓国の近代化の基礎が出来上がるわけですが、それは人的面では李朝時代に虐げられていた身分の人たちの進出によるものです。現在、韓国ではこれらの人の多くを親日売国奴の意味)として糾弾されていますが、とんでもない話です。韓国民にとって恩人の方々です。




参考文献
 文藝春秋大韓民国の物語」李 榮薫(著)/ 永島広紀(訳)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 株式会社国際企画「日韓2000年の真実」名越ニ荒之助(編著)

添付画像
 碁を打つ政府高官の両班階級 1904年 (PD)
 
 
こんな記事もあります
みんながどういう記事を書いているか見てみよう!
2012/4/14(土) 午前 0:21
... 村の常漢どもが両班を名乗り、昔の呼び名はどこかに消えてしまい、争いをする時には汝や君やと呼ぶ」  村人たちが両班を軽んじてタメ口を使うようになったということです。両班にとっては日韓合邦は不快この上なかったでしょう。  制度を変え ...
2012/2/25(土) 午前 10:36
... 韓国与党議員の「韓日合邦100周年」発言を韓国ネットユーザー ... 総理大臣の李完用など容認派、両班儒者など反対派と割れ ... 第二次日韓協約に違法はなくて、日韓併合は合法など、日韓の歴史の真実を知るべきです。 良識ある日本国民の皆様 ...
2010/2/2(火) 午前 0:11
... 村の常漢どもが両班を名乗り、昔の呼び名はどこかに消えてしまい、争いをする時には汝や君やと呼ぶ」    村人たちが両班を軽んじてタメ口を使うようになったということです。両班にとっては日韓合邦は不快この上なかったでしょう。  制度を変え ...
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ソウル大学の歴史(6番目の日本帝国 京城帝国大学)

ソウル大学の歴史(京城帝国大学

前史

 李氏朝鮮では、1895年開国504年)の甲午改革により近代教育制度が始まった。
 初代統監として着任した伊藤博文甲午改革から1906年(光武10年)まで11年経っても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた。
  そのため1906年(光武10年)には韓国統監府より普通学校令が公布され、5~6年制であった小学校を4年制に改編し、教育が進められた。
 対して日本は1908年隆熙2年)に私立学校令を公布し、統一した教育の実施を狙った。
 
 1910年明治43年)の韓国併合後、朝鮮総督府朝鮮人を対象とする第一次「朝鮮教育令」を公布(1911年)して普通教育を進めた。李氏朝鮮時代には一般人(特に女子)を教育する機関はなく、7割程度の朝鮮人が読み書きができず、また朝鮮では漢字が重視されハングルは軽視され教育されることはなかったため、ハングルを必修科目とした日本の教育により、朝鮮民衆にハングルが広まったとも言われる。
 しかし、当初は朝鮮人年少者は未就学であり、就学した朝鮮人も、多くは民族系の私立学校や書堂に通学し、日本系の普通学校での朝鮮人は日本人の3%程度だった。
 総督府はこのような事実に対し、1911年明治44年)に改正私立学校規則を公布、1918年大正7年)に書堂規則を公布し、より教育の統一性を図った。初等学校への就学率は併合時代の最末期で男子が93%、女子が70%代にまで急上昇した。
 
 1918年(大正7年)、日本(内地)での高等学校令改正に直接的な影響を受けて、1920年大正9年)に臨時教育調査委員会が設置され、その答申に基く「第二次朝鮮教育令」(1922年)により、朝鮮でも法的に大学設立が可能となった。
 
 朝鮮総督府武断政治から文化政治への政策転換は「内地延長主義」と呼ばれるが、朝鮮での教育に関しては「内鮮共学」と呼ばれる。
 他方、「内鮮共学」対抗し、三・一独立運動以降の1920年頃からは、民族系の団体が私立の「朝鮮民立大学」設立の動きを見せ、また、在朝鮮アメリカ宣教師団体が専門学校の大学昇格の動きもあった。このような日本の朝鮮統治への抵抗としての大学設立機運が朝鮮民衆の中で高まる中、かかる動きを制するために、日本政府及び朝鮮総督府主導下での大学設置が急がれることとなった。

大学沿革

 
 1924年大正13年)に予科を設置し、1926年(大正15年)に法文学部医学部の各学部が設置されて大学レベルの教育体制が整った。所在地は、鍾路区大学路(旧:京城府東崇町。予科清涼里)。
 1929年昭和4年)から大規模な水力発電所鴨緑江とその支流に造られ、1930年代の朝鮮は工業化が急速に進んだこと、また、1931年昭和6年)の満洲事変1932年昭和7年)の満洲国設立により、資源が豊富な満洲での工業化が見込まれたことなどから、高度な技術を持つ人材の需要が高まり、その供給源として1941年昭和16年)には理工学部が設置された。
 
 城大の教授陣は東京帝国大学卒を中心としており、他の帝国大学の設立期と似ている。日本語専門教育の講義がなされる城大では、入学者は予め日本語での普通教育が必要であり、支那事変日中戦争)勃発(1937年)後には「第三次朝鮮教育令」が公布(1938年)され、「内鮮教育の一元化」が唱えられた。
 しかし、1942年昭和17年)の朝鮮人就学率は55%、日本語普及率は20%に留まり、城大でも医学部における1930年昭和5年)の第1期卒業生が日本人43人と朝鮮人12人、城大全体では1937年昭和12年)の日本人学生と朝鮮人学生の比率が70.2%と29.8%、1942年昭和17年)のそれが60.4%と39.6%と、朝鮮人学生が過半を占めるに至らなかった。

戦後

 終戦により連合軍軍政期に入ると、教職員や学生の半数以上を占める日本人学生は日本に引き揚げ京城帝国大学は閉鎖された。しかし、閉鎖後2ヶ月で、城大の固定資産を受け継いでソウル大学校が開学した。
 ソウル大学校の公式表明ではその建学を1946年としており、京城帝国大学との連続性を認めてはいない。ただし、農科大学(現:農業生命科学大学)の場合は水原高等農林学校(農林専門学校)が前身であり、さらに同校は大韓帝国期における農商工部の農林学校まで遡るため、部局史レベルでは日本統治時代の記述もなされている。

転載元転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興・歴史認識