韓国はなぜ反日か?それは『惨めな属国だった歴史を隠したい』

韓国はなぜ反日か?
 
まず一つに、『教育のせい』である。

では、“なぜ”韓国では反日教育をするのか?

それは、韓国にとってそれがどうしても『必要だから』である。
   
さて、韓国にとって、“なぜ”反日が必要なのだろうか。
 

★韓国の事情 『惨めな属国だった歴史を隠したい』

 
世界で知られるように、朝鮮はずっと中国の『属国』だった。
記録や物的証拠も国内外に数え切れないほど残っており、留学経験のある朝鮮人にも自ら属国であったことを認めている。
そもそも韓国の古い国旗にまで「大清国属(清=中国)」と書いてあったのだから属国だったことは否定しようがない

しかし韓国は国家レベルで「属国だった過去」を消し去りたかった。

古い国旗が発見された時も、韓国国内のニュースでは「大清国属」という文字をカットして報道したほどである。
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実はこの韓国の感情的問題は「反日」に密接な関係がある。
まず、朝鮮と清(中国)がどの程度の従属関係だったか。

朝鮮というのは、中国の属国の中でも琉球(現在の沖縄)よりも低い地位だった。 そもそも、中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、 下国のなかの下国であった。

天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。

また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し、朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていたことが
「渓陰漫筆」に書かれている。

そして、李朝時代の臣民は琉球以下の扱いを受けたと嘆いている。

         (黄文雄『韓国は日本人が作った』徳間書店
 
 
服装も違ったし、籠にも乗れなかった。 身分が「最も低い」のだからしかたない。 身分の低さは朝鮮がどんな扱いを受けていたかを見ればより明白になる。

・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。
・朝鮮は清国に細かく定められた貢品を出す以外に、毎年、3000頭、3000頭、各地の美女3000人を選り抜いて貢がなければならない
 
 朝鮮国王が宗主国の清国皇帝に奉呈した貢文に気に入らない言葉がたった一つあっただけで、朝鮮国王は銀1万両を罰金として払った上に、年貢への見返りを3年間停止するという厳しい処罰を受けている。


朝鮮国内にもその名残がある。

 現在ソウルの城門のあった場所には「独立門」というものが建てられたが、昔その場所には『迎恩門』という門があり、それは「朝鮮王が9回頭を地面に叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して清の使者を迎える」という
屈辱的な隷属の象徴の門だった。
この迎恩門で『朝鮮の国王』が 土下座して出迎えたのは、中国の「王」ではなく中国の『使者』である。

朝鮮はそれほどまでに国家として“下”にみられていたのだ。

この1000年に渡る奴隷のごとき低い扱いは、彼ら朝鮮民族の『民族気質』に深刻な影響を与えることになる。



朝鮮民族の民族気質を簡単に説明するには、朝鮮人の名前が「金(キム)」や「朴(パク)」などのようにワンパターンになった理由を説明するのがわかりやすい。
1.朝鮮人は長い間中国の属国として低い身分にあったため、低い身分の者や
  貧困者、弱者、ひいては身障者などへの虐待を「下の者が下に見られるの  は仕方のないこと、上の者が下の者を見下すのは当然のこと」と考える民  族的傾向が定着していた。屈辱を「当然」と考えなければ精神的に乗り越え  られないほど、千年の隷属というのは長かった。

2.朝鮮は虐げられる者の反動として、より低い者を虐げる「貴族社会」が長く  続いた。そのため、家系が悪ければ努力はほとんど無意味だった。貴族が  裕福なのも、奴隷が貧しいのも、生まれた家に決定された。

3.やがて低い身分にある者が「自分の先祖は名門だった」と思いたくなり、
  いつしか「偽の家系図を買う」または「家系図を書き換える」ことで
  底辺で虐げられる身分から一発逆転を果たすことが流行してしまった。

4.その結果、皆が「限られた同じ名門両班という)の名前」になり、
  形の上では皆が同じ名門の家系出身の者ということになった。
  逆に底辺(白丁という)の出身者は歴史の闇へと消えていった。
  現在、どの韓国人に聞いても「私は由緒ある両班の出身だ!」と
  答える。今はもう白丁の子孫であってもその自覚すらなくなっている。
 


元より宗主国・中国も姓の種類は少ないが、その一部をコピーした属国の中で、さらに系譜の偽装が行われ「名門・良家の姓」にのみ絞られていったため、朝鮮人の姓は極端に種類が少ないのである。


ここで朝鮮人の民族特性をまとめ直すと、まず、『誰よりも“過去や先祖”を誇りたがる民族』であるということ。 民族の成り立ち上、醜い過去に対するコンプレックスが強いのである。

そして『努力せずに嘘や小細工で勝ち組になれることに味をしめた民族』であるということ。過去の歴史を書き換えることで名門になることができた国の人々なのである。

このような性質を持つ彼らには、朝鮮民族の歴史はあまりにも惨めすぎた。 つまり痛々しすぎて自分たちの過去を振り返るのが苦痛なのである。

それゆえ、独立した後に民族意識を高めるための愛国教育”と称して、 『我が国は5000年間一度も他国に支配されたことの無い独立国である』という“偽りの栄光の歴史”をあたかも真実のように国民に教え込むことにしたのである。

これが韓国の愛国教育の成り立ちである。

★日本の「見事な併合」が逆に仇になる  


日本は朝鮮併合時に桁外れに朝鮮を豊かにした

韓国人はそれを全く信じようとしないが、韓国の教科書に載っていないだけで証拠はいくらでもある。

だが、このような「併合前の貧しさ」は韓国では隠蔽されている。
イザベラ・バードが見たソウル

都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。
 礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている

 路地の多くは荷物を積んだ牛同士が擦れ違えず、荷牛と人間ならかろうじて擦れ違える程度の幅しかない。おまけに、その幅は家々から出た糞、尿の汚物を受ける穴か溝で狭められている。酷い悪臭のするその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち疥癬もちで
 かすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、日向でまばたきしている。

 ソウルの景色のひとつは小川というか下水というか水路である。蓋のない広い水路を黒くよどんだ水がかつては砂利だった川床に堆積した排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。水ならぬ混合物を手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。

 Seoulには芸術品がまったくなく公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がSeoulにはことごとく欠けている。
 古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく宗教にはおよそ無関心だったため寺院もない。
 結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない。
 ("Korea and Her Neighbours" by Isabella Lucy Bird 
  『朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・L・バード)
勤勉な日本人には文化と技術があった。 国が豊かになったのは明らかだろう。

1910年の併合から1945年の独立までのたった35年間でここまでの発展をした国は世界にも他にない。

では日本はいったいどんな魔法を使ったのか?

実は魔法ではない。文字通り身を切るような努力である。たとえば、


・朝鮮が無計画な浪費で返済不能になっていた莫大な借金
 (外国からの借金+国債)を肩代わりしてチャラにした。

日本の国家予算で学校などの教育機関や裁判所、上下水道、公園、病院、警察署、道路、 水力発電所、農地、鉄道などの文化的生活に必要な施設を作った。

・日本の金で朝鮮全土に5000校もの近代小学校を建設し、
 近代教育をしてハングルを必修で学ばせた。

・日本の技術と資本により2次産業を9倍も成長させると同時に
 1次・3次産業も大幅に伸ばした。

・医療と衛生環境を向上させて平均寿命を26歳から42歳にまで
 飛躍的に延ばした。

人口を2倍まで増やし、その人口が全員が食べていけるほどの
 驚異的な食料供給力を与えた。

・世界中のどの国も金を貸したがらない極貧後進国に、貸し倒
れも恐れずに世界一安い金利で金を貸し与えた。

・発展のために必要な資金や資材などの「物的支援」だけでなく、
 「人的支援」「技術支援」も同時に行った。


このように日本は弛まぬ努力により朝鮮半島“奇跡”と呼ばれるほどの大幅な発展をもたらしたのである。
 だが、韓国はこれらの日本の功績を全て隠蔽した


少し考えればわかることだが、朝鮮は世界一貧乏だっただけでなく、技術も資源もなにもなかったのだから日本の力なしに急成長などできるわけがない。なにもなかったのに借金だけあったから併合を望んだのだ。

木造のあばら家で雑穀を食って風呂に入る習慣も持たない土人のような生活をしていた韓国が、『たった数十年で』ビルが立ち並ぶ街に住み、米を主食に清潔な環境で暮らす国際的にも豊かな国のひとつになっている。
ある意味奇跡的ではあるが、それは日本の努力によるものである。

しかし韓国政府は、

「奇跡の発展は全て韓民族の能力によるものだ」と国民を洗脳した。

「貧しかった時代」のことも隠し続けている。



 



韓国人の特徴の一つなのだが、『韓国人は韓国人を褒めちぎる』。 それは愛国教育という名の反日洗脳の下準備である。 



 ~現代韓国人が知らない日本統治以前の奴隷社会~

  「韓国人が朝鮮王朝を慕い、日本の統治を受けず朝鮮王朝が継続したならもっと今日の暮らしが良くなっていると考えるのは、当時の朝鮮の実態についてきちんと分かっていないためだ。
 
 特に子供と青少年は、きれいな道ときれいな家、整った身なり、上品な言葉遣いのテレビの歴史ドラマを観ながら、朝鮮もそれなりに立派な社会で外勢の侵略がなかったならば静かで平和な国家を保てたろうと錯覚する。
 しかし日本が来る前の朝鮮は、あまりに未開で悲惨だったという事実を知らねばならない。」 (金完燮親日派のための弁明』より)


金完燮がこの本を出した時、なんと彼はただちに逮捕された。

彼が「こんなことで投獄するなら日本大使館に亡命せざるをえない」と抗議してようやく釈放された後も、この本は韓国政府に都合が悪いので有害図書に指定され、一般書籍と一緒に販売できないように規制し、事実上の販売禁止処置を受けてしまった。

そして、金完燮のように真実を知る者が一部にはいるにも関わらず、韓国の教科書では恥ずかしげもなくを教え、それが韓国では「常識」として信じられている。
火病 
韓国人が本当の韓国の歴史の姿を知った時などに、韓国政府が過剰に賛美してきた「理想の韓国」と「あまりに酷い現実」のギャップに耐えきれずに精神が破綻したり、嘔吐や拒食などを併発する一連のショック症状である。
H・B・ヘルバートによる朝鮮人分析
朝鮮人は正気を失うほど激しく怒る。自分の命などどうなってもかまわないような状態になって、牙を剥き出した動物へと変身する。
口から泡を吹いて、まるで獣のような顔になるのだ。残念なことにこの怒りの衝動、自分を見失ってしまう悪癖は、男だけの専売特許ではない。朝鮮の女も恐ろしいばかりのヒステリーを撒き散らす。
 (H・B・ヘルバート『朝鮮滅亡』)

転載元転載元: 教育再生(中国と韓国の反日教育を止めさせて優しくて強い日本人に)

大清皇帝功徳碑

大清皇帝功徳碑

大清皇帝功徳碑各種表記ハングル漢字片仮名
現地語読み平仮名
日本語読み文化観光部2000年式
英語名:
대청황제공덕비
大淸皇帝功德碑
テチョン=ホワンジェ=コンドック=ビ
だいしんこうていこうとくひ
Daechong hwangje gongdeok bi
Samjeondo Monument
  
 大清皇帝功徳碑(だいしんこうていこうとくひ)は、大韓民国ソウル特別市松坡区三田渡に建立された石碑であり、建立地の名を取った三田渡碑(さんでんとひ、サムジョンドビ、삼전도비、Samjeondo-bi)とも呼ばれる。韓国では後述の経緯から「恥辱碑」とも言われる。
 碑の名称は以下である。
  • 中国語: Dàqīng huángdì gōngdé bēi(大清皇帝功德碑
  • 満州語: Daicing gurun i Enduringge Han i gung erdemui bei
  • モンゴル語: Dayičing ulus-un Boɤda Qaɤan-u erdem bilig-i daɤurisɤaɤsan bei
 
経緯 [編集]
 
 李氏朝鮮14世紀末の建国以来、朝貢国であったが、17世紀に入ると満州中国東北部)で女真族が建てた後金が勃興、李氏朝鮮と対峙するようになった。1627年には後金が朝鮮へ侵攻した(丁卯胡乱)が膠着し、両者が兄弟関係を結ぶことで講和した(丁卯約条)。
 しかし朝鮮では古来から同国にも朝貢に来ていた女真族を「北狄/オランケ」(野蛮人)と蔑すむ考えが多く、とりわけ保守的な儒者後金との決戦を唱え続けるなど、火種はくすぶっていた。
 
 後金は1636年ホンタイジ皇帝を称し、国号をと変更すると、朝鮮に対して朝貢及び明への派兵を求めた。官僚派閥である北人大北派の主張に沿って中立政策を取った前王の光海君と違い、華夷思想を重んじた西人に支持されて即位した王・仁祖にとって、永く朝貢を受ける相手であった女真族の要求は到底呑めるものではなかった。
 仁祖が朝貢を拒絶し、清皇帝を認めないと公表すると、激怒したホンタイジはただちに朝鮮への親征を行った(丙子胡乱)。清の圧倒的な兵力の前に各地で敗北を重ねた朝鮮軍は開戦後40日余りで降伏し、和議が持たれた。
 講和内容は11項目に及び、清への朝貢と清からの冊封、明との断交、朝鮮王子を人質に差し出す、膨大な賠償金など屈辱的なものであった。そればかりか仁祖は三田渡で、ホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をもって清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった。
 
 ホンタイジは、自身の「」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語モンゴル語漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に建立させた。これが「大清皇帝功徳碑」である。
 その後、日清戦争で日本が勝利し、1895年下関条約で、清の冊封体制より李氏朝鮮が離脱したのを機に、「屈辱碑」とされていた同碑は迎恩門と同時期に倒され、地中に埋められた。
 しかし日韓併合後の1913年には引き上げられ、さらに光復後(1945年)に再び埋められたり、と何度か滅出を繰り返した後、韓国の「史蹟第101号」(1957年2月1日)に指定された。1963年に洪水で流されたが、ソウル特別市松坡区石村洞 289-3(北緯37度30分11.92秒 東経127度06分25.44秒 / 北緯37.5033111度 東経127.1070667度 )に復元された。「朝鮮の屈辱の象徴」として、移転の願いなどがされた。
 
 2008年、この石碑は、原位置の考証を行い、ロッテワールドのビルの裏手、松坡区蚕室洞47番地の石村湖水西湖の北東側にある緑地帯(北緯37度30分38秒 東経127度6分6秒 / 北緯37.51056度 東経127.10167度 )へ移されることが文化財庁により決定された。[4]石碑の横に建てられていた仁祖が降伏する光景(ホンタイジの前において土下座している描写)の銅板は、「文化財的な価値はない」との理由により、文化財委員会の判断に基づき撤去されることとなった。

石碑の形状等

この碑文は、亀の背の台座(亀趺)の上に碑身があり上部は蛟首である。高さ5.7m、幅1.4m、奥行3.95mで、大理石で作られている。現存のうち1碑は亀趺だけである。
前左側にモンゴル文、右側に満洲文、そして裏面に漢文が刻まれている。3つの言語による碑文の内容は完全に同一意味のものではなく、漢文には朝鮮王臣が文を撰じて刻んだことが記されてあり、満洲文では詳細な経緯も記述されている。

碑文全文(漢文)

大清崇德元年冬十有二月 寬温仁聖皇帝 以壞和自我 始赫然怒 以武臨之 直擣而東 莫敢有抗者 時我寡君棲于南漢  凛凛若履春冰而待白日者 殆五旬 東南諸道兵 相継崩潰 西北帥逗撓峽内 不能進一歩 城中食且盡 當此之時 以大兵薄城 如霜風之卷秋蘀 爐火燎鴻毛 而皇帝以不殺爲武 惟布德是先 乃降勅諭之曰 來 朕全爾 否 屠之 有若英馬諸大將 承皇命相屬於道 於是 我寡君集文部諸臣謂曰 予托和好于大邦 十年于茲矣 由予惛惑 自速天討 萬姓魚肉 罪在予一人 皇帝猶不忍屠戮之 諭之如此 予曷敢不欽承 以上全我宗社 下保我生靈乎 大臣協贊之 遂從數十騎 詣軍前請罪 皇帝乃優之以禮 拊之以恩 一見而推心腹 錫賚之恩 遍及從臣 禮罷 即還我寡君于都城 立召兵之南下者 振旅而西 撫民勸農 遠近之雉鳥散者 咸復厥居 詎非大幸歟 小邦之獲罪上国久矣 己未之役 都元帥姜弘立 助兵明朝 兵敗被擒 太祖武皇帝 只留弘立等數人 餘悉放回 恩莫大焉 而小邦迷不知悟 丁卯歳 今皇帝命將東征 本国君臣 避入海島 遣使請成 皇帝允之 視爲兄弟国 疆土復完 弘立亦還矣 自茲以往 禮遇不替 冠盖交跡 不幸浮議扇動 搆成亂梯 小邦申飭邊臣 言渉不遜 而其文爲使臣所得 皇帝猶寬貸之 不即加兵 乃先降明旨 諭以師期丁寧反覆 不翅若提耳面命 而終未免焉 則小邦君臣之罪 益無所逃矣 皇帝既以大兵圍南漢 而又命偏師 先陷江都 宮嬪王子曁卿士家小 倶被俘獲 皇帝戒諸將 不得擾害 令從官及内侍看護 既而 大霈恩典 小邦君臣及其被獲眷屬 復歸於舊 霜雪變爲陽春 枯旱轉爲時雨 區宇既亡而復存 宗社已絶而還續 環東十數千里 咸囿於生成之澤 此實古昔簡策所稀覯也 於戯盛哉 漢水上流三田渡之南 即皇帝駐蹕之所也 壇塲在焉 我寡君爰命水部 就壇所增而高大之 又伐石以碑之 垂諸永久 以彰夫皇帝之功之德 直與造化而同流也 豈特我小邦 世世而永賴 抑亦大朝之仁聲武誼無遠不服者 未始不基于茲也 顧搴天地之大 畫日月之明 不足以彷彿其萬一 謹載其大略 銘曰  
天降霜露 載蕭載育 惟帝則之 竝布威德 皇帝東征 十萬其師 殷殷轟轟 如虎如豼 西蕃窮髪 曁夫北落 執殳前驅 厥靈赫赫 皇帝孔仁 誕降恩言 十行昭回 既嚴且温 始迷不知 自貽伊慼 帝有明命 如寐之覺 我后祗服 相率而歸 匪惟怛威 惟德之依 皇帝嘉之 澤洽禮優 載色載笑 爰束戈矛 何以錫之 駿馬輕裘 都人士女 乃歌乃謳 我后言旋 皇帝之賜 皇帝班師 活我赤子 哀我蕩析 勸我穡事 金甌依舊 翠壇維新 枯骨再肉 寒荄復春 有石巍然 大江之頭 萬載三韓 皇帝之休   
嘉善大夫禮曹叅判兼同知義禁府事 臣呂爾徴 奉敎篆
資憲大夫漢城府判尹 臣呉竣 奉敎書  
資憲大夫吏曹判書兼弘文館大提學藝文館大提學知成均館事 臣李景奭 奉敎撰
崇德四年十二月初八日立

大意

  • 愚かな朝鮮王は、偉大な清国皇帝に逆らった。
  • 清国皇帝は愚かな朝鮮王をたしなめ、己の大罪を諭してやった。
  • 良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。
  • 我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。

和議の内容

  • 朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと。
  • 朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡すこと。
  • 王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。 
  • 清国が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。 
  • 内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。
  • 城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。 
  • 清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること。 
  • 清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること。 
  • 清国からの逃亡者を隠してはいけない。 
  • 日本との交流を許すこと。
  • 清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品を毎年上納すること。

転載元転載元: 中国から放射能が高く、日本の原発より高濃度で日本に拡散している

丁卯胡乱(ていぼうこらん)とは、1627年に後金のホンタイジ(太宗)が李氏朝鮮に侵攻した事件

丁卯胡乱

 
                 
朝鮮の歴史
先史時代
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日本統治時代
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大韓民国 朝鮮民主主義人民共和国
* 朝鮮の君主一覧
* 大韓民国指定国宝
* 朝鮮半島を中国とみなす記述
Portal:朝鮮
丁卯胡乱(ていぼうこらん)とは、1627年後金ホンタイジ(太宗)が李氏朝鮮に侵攻した事件の朝鮮での呼び名である。また、この戦いに続いて1636年には丙子胡乱が起こっている。
 
 
背景
 李氏朝鮮1619年サルフの戦いで1万人の援軍をに送ったが、李氏朝鮮の将軍であった姜弘立は後金のヌルハチに降伏した。姜弘立は、「李氏朝鮮は後金に対して戦う意志は無く、明の強制的な要請によって援軍を送ったのだ」と弁明し、ヌルハチヌルハチの子であったダイシャンも朝鮮への侵攻には興味を持っていなかったので、後金はヌルハチの死まで朝鮮へ侵攻することはなかった。
 
 ところが、李氏朝鮮1623年西人派のクーデターが起こり、それまで明と後金の両者に対し中立的な外交政策をとっていた光海君が廃位されて、仁祖が即位した(仁祖反正)。西人派は後金との交易を停止するなど反後金親明的な政策を取り、後金をひどくいらだたせるようになる。また明の遊撃部隊の指揮官であった毛文龍が、朝鮮半島において後金に対しゲリラ的な戦闘を行うようになった。
 
 最初の後金による侵攻のきっかけは、1624年の仁祖に対する李适(りかつ、イクァル)の反乱による。李适は前年のクーデターの首謀者の1人であったが、その論功行賞に不満を持ち、平安道で反乱を起こした。この反乱はすぐ鎮圧されたが、後金に逃げ込んだ反逆者の一部が、ホンタイジ李氏朝鮮を攻めるよう進言した。

戦争

 1627年、ホンタイジ(太宗)はアミン(阿敏)、ジルガラン(済爾哈朗)、アジゲ(阿済格)、ヨト(岳託)、ショト(碩託)らの率いる3万の軍勢を、姜弘立ら朝鮮人の同行の下に朝鮮半島に送った。李氏朝鮮軍は後金軍に対して何の備えもしておらず、文禄・慶長の役による被害からも立ち直っていなかった。
 後金軍は李氏朝鮮領内に侵攻し、その途上で毛文龍の軍も破ったが、毛文龍を捕らえることは出来なかった。後金軍がついに漢城に到達すると、仁祖は江華島に逃亡した。
 
 こうした状況で、後金は李氏朝鮮に和平交渉を申し入れてきた。ホンタイジが、自国の防衛が手薄になることを気にかけていたのが要因と考えられている。李氏朝鮮側では反後金派による抗戦論もあったが、結局この和議はすぐに受け入れられた。
 以下の声明は、江華島で合意された内容である。
  • 後金を兄、朝鮮を弟とする兄弟国としての盟約であること。
  • 李氏朝鮮は明の年号「天啓」を使わないこと。
  • 李氏朝鮮李氏朝鮮の王子の代わりに、王族の李玖(イグ)を人質として差し出すこと。
  • 後金と李氏朝鮮は、今後互いの領土を侵害しないこと。
この交渉中、ホンタイジがアミンに和議の署名をするよう命じる前に、アミンの軍は平壌で数日間略奪を行っている。この和議は後金にとって有利な内容であり、侵攻開始から4ヶ月で後金軍は瀋陽に撤退した。

戦後

 戦後の交渉は双方の国で進められた。後金は明との長期の戦闘によって経済的に疲弊しており、李氏朝鮮に対して国境付近の義州会寧に市場を開くことを要求した。李氏朝鮮ワルカ部女真を後金に返還した。
このように、後金は李氏朝鮮に対して一方的に自国が有利になるような要求を押しつけたので、両者の関係は良いものにはならなかった。
 丁卯胡乱は、李氏朝鮮にとって9年後の丙子胡乱ほど壊滅的なものではなかったが、「文禄・慶長の役で支援をしてくれた明を無下にするような和議を後金と結んだことは裏切り行為である」という非難の声が、当時の儒学者儒教派の政治家から挙がった。
 
 こうした感情は、1636年ホンタイジが皇帝に即位したことを認めるように要求してきた際に噴出する。この時、反後金派で占められていた李氏朝鮮政権はこの要求を断り、それによって同年の丙子胡乱を引き起こすことになるのである。

転載元転載元: 中国から放射能が高く、日本の原発より高濃度で日本に拡散している

丙子胡乱(へいしこらん)とは、1636年 - 1637年に清が李氏朝鮮に侵入し、李氏朝鮮を制圧した戦い

丙子胡乱

 
 丙子胡乱(へいしこらん)とは、1636年 - 1637年李氏朝鮮に侵入し、李氏朝鮮を制圧した戦いの朝鮮での呼び名である。中国では丙子之役と呼ばれている。朝鮮の呼称にある胡の字は、漢族が北部や西部の異民族への蔑称として用いていたものである。胡乱は、北西部の蛮族(女真)が乱を起こしたという意味になる。
 
 
概要
 1630年代、中国全土を支配していたが衰えを見せ、それに変わり後金が台頭してきた。1636年、後金の皇太極(太宗)が皇帝に即位し、国号を清と改める。
 しかし周辺国の中で朝鮮のみが皇太極の皇帝即位を認めず、あくまで明朝皇帝を推戴する姿勢を見せた。これを不快に思った皇太極は自ら10万の兵力を率いて李氏朝鮮に侵攻した。
 
 仁祖南漢山城に篭城をしたが、翌1637年降伏をし、三田渡で皇太極に対し三跪九叩頭の礼による清皇帝を公認する誓いをさせられるという降伏の儀式が行われた。三田渡の地には後にこれを記念した石碑(大清皇帝功徳碑)が建てられた。
 清軍は50万の朝鮮人捕虜として強制連行し、当時の盛京瀋陽)の奴隷市場で売買した。朝鮮人奴隷は清が他国とした戦争に兵隊として動員され、農業と工事に不足した労動力を補充した。暴行されることは常で、婦女子たちは随時にレイプされた。この戦争によって朝鮮が受けた損害は計り知れない。

戦後

 この戦いの和議では、明との断交、清の冊封を受け、王子を人質として清へ差し出すことなどが取り決められた。これにより、李氏朝鮮は清の冊封国[1]となり、清の冊封体制に組み込まれた。朝鮮は清からの勅使派遣を迎え入れるために迎恩門を建て、清からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回におよび、そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門に至り、「三跪九叩頭の礼」により迎えた後、慕華館での接待を余儀なくされた。
 逆に朝鮮から清への朝貢使(朝鮮燕行使)は500回以上にも及んでおり(当初は毎年4回、1644年以降は年1回)、これは当時の清の冊封を受けていた琉球(2年に1回)、タイ(3年に1回)、ベトナム(4年に1回)などと比べても突出して多いものであった。このような清と朝鮮の冊封関係は、日本と清による日清戦争で日本が勝利し、下関条約で日本が清に李氏朝鮮の独立を認めさせる1895年まで、約250年間続いた。
 
 李氏朝鮮は、この和議により初年度に黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品を献上したが毎年朝貢品目は減った。
『仁祖実録』によれば和議の10ヵ月後には8歳から12歳の6人の女を送ったり、その翌年には10人の侍女を送った記録がある。
 朝鮮がこの戦いに敗れるまで、歴代の朝鮮王が明朝皇帝に対する臣節を全うしたことを清側も高く評価し、後の康熙帝がこれを賞賛する勅諭を出している。

和議の内容

  • 朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと。
  • 朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡すこと。
  • 王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。 
  • 清国が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。 
  • 内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。
  • 城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。 
  • 清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること。 
  • 清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること。 
  • 清国からの逃亡者を隠してはいけない。 
  • 日本との交流を許すこと。
  • 清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品を毎年上納すること。(20余種の物品の具体的には、清国に毎年美女3000名、牛馬各々3000を献上等々)
 
 
 

転載元転載元: 中国から放射能が高く、日本の原発より高濃度で日本に拡散している

日清戦争により日本が清国から朝鮮を独立させた

日清戦争により日本が朝鮮を独立させた

 
11分 - 2008年9月25日 - アップロード元: zaitokukainagoya
在日特権を許さない市民の会」における村田春樹先生による講演の一部です。 朝鮮・韓国日本の歴史の勉強会です。 韓国人や中韓国好きの日本人の主張する歴史と比較し ...
www.youtube.com/watch?v=sbJuaYI_grk - 関連動画
 
 
 
 
経緯

冊封体制下の秩序と開国

 当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持し、鎖国状態にあった。大日本帝国による開国要求は、その要求国書において歴代の中国皇帝と同列の「天皇」を使用していたこともあり、長らく中華秩序の一翼を担ってきた朝鮮側からは、中華秩序に対する挑戦と受け取られた。朝鮮側は、大日本帝国政府による近代化の要請を内政干渉としたほか、李氏朝鮮では大日本帝国の民間知識人による近代化のアドバイス侵略的意図があるものと捉えられ、朝鮮王朝内部における政争の一因となった。
 
 西欧列強や、朝鮮を取り込もうとするロシア大日本帝国朝鮮半島鎖国状態が続くことを容認せず、大日本帝国江華島事件を機に李氏朝鮮不平等条約である日朝修好条規を締結し、これを契機に李氏朝鮮は列強諸国とも同様の条約を結ぶことで開国を強いられた。
 大日本帝国側は条約締結の際、朝鮮を清朝冊封体制から離脱させるため「朝鮮は自主の邦」という文言を入れることに固執したが、これは冊封体制に依存していた朝鮮王朝や朝鮮側知識人にとって容易には理解しがたいものであった(誤解されがちだが、冊封体制下の国、すなわち「朝貢国」とは、即「従属国保護国」を意味しているものではないことについての認識の差が両政府間に存在した)。

開国後から日清戦争まで

 大日本帝国による朝鮮開国後に甲申事変が起きるなど、李氏朝鮮の内部からも改革の要求は出ていたが、実権を掌握していた興宣大院君閔妃は守旧的態度を採り続けた。大日本帝国は自国主導による朝鮮半島の政治改革を目指したが、清国側はあくまでも「李氏朝鮮冊封体制下の属邦である」との主張を変えなかった。
 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1b/Coree.jpg/250px-Coree.jpg
ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)
日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている
 
 朝鮮半島を挟んで日清両国の関係が緊張するなか、李氏朝鮮内部においても悪政と外圧の排除を唱えた東学党による農民反乱・甲午農民戦争が起きた。日清両国はそれぞれ、「乱の鎮圧」を名目に朝鮮半島に出兵したが、既に農民勢力と政府の間には和約が結ばれ日清両軍は出兵の口実を失った。しかしこれを朝鮮への清国の影響力を排除する好機と捉えた陸奥宗光など大日本帝国政府側は「李氏朝鮮政府の内政改革勢力からの駐兵要求」など、新たに口実を設けて自軍の駐留を続けた。
 清国も同様に軍の駐留を続行し、1894年日清戦争が勃発することとなった。日清戦争で勝利した大日本帝国は清国との間に下関条約を締結した。大日本帝国が朝鮮で開発を行うために清国と朝鮮との宗属関係の排除が必要であり、下関条約によって朝鮮が自主独立国であることを認めさせることにより大日本帝国の権益の障害となる朝鮮半島での清国の影響力を排除することに成功した。

三国干渉後と大韓帝国の成立

 日清戦争直後の朝鮮半島では、大日本帝国を後ろ盾とする改革派の勢いが強まったものの、その後大日本帝国が西欧列強による三国干渉に屈服したことで、朝鮮王室は列強同士の牽制による独立維持を目指し帝政ロシアに接近した。そのため、政争が過激化した。閔妃暗殺もこの時期である。1896年に親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗はロシア公使館において1年あまり政務を執う異常事態となった(露館播遷)。
 この事態は李氏朝鮮帝政ロシア保護国と見なされる危険性もあったことや朝鮮の自主独立を目的とする民間団体である独立協会からの還宮要請に応えるため、高宗は1897年2月に慶雲宮に還宮し、皇帝が主権を取る清国や大日本帝国帝政ロシアに対抗するため朝鮮国李氏朝鮮は通称)から高宗は1897年10月に皇帝に即位し国号大韓帝国と改めた。
 
 
 
下関条約は、1895年4月17日に下関で締結された、日清戦争後の講和会議における条約である。正式名称は日清講和条約(にっしん こうわじょうやく)。
 
第一条 清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
 
 

転載元転載元: 底質汚染・底生生物減少・水域汚染&国境警備 独学帳

2.岡田克也の妄言と奴隷根性・韓国の修正に「外相抗議せず」北にも“おわび・韓国政府の意図的「返還」修正は日韓基本条約関連協定に違反・韓国併合談話「過ちに素直に謝罪は当然」・日韓併合に過ちなど何も無い

 
1.岡田克也の妄言と奴隷根性
韓国の修正に「外相抗議せず」北にも“おわび
韓国政府の意図的「返還」修正は日韓基本条約関連協定に違反
韓国併合談話「過ちに素直に謝罪は当然」
日韓併合に過ちなど何も無い
のつづき
 
 
 
 
 
>また「自分の国に誇りがあるなら、自分の国を他国に置き換えたときどうなのか、そのぐらいの想像力はもつべきだ」とも強調した。


日清戦争後の下関条約で、日本が清国から独立させてやるまで、朝鮮は1200年間以上も支那の属藩だったのだから、自分の国に誇りなどあったわけがない。

 http://blog-imgs-34.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/201008141224008cc.jpg
迎恩門
清皇帝から受けた恩に、感謝して迎えるために作った門
ここで朝鮮王は、9回頭を地面に叩きつけて、ひれ伏し、清の使者を迎えた

明の朝貢属国
大清国属
土下座碑
迎恩門→独立門
下関条約
http://koreaphoto.hp.infoseek.co.jp/dependency.html
その他写真
http://photo.jijisama.org/

外務大臣なら、そのぐらいの想像力はもつべきだ。

岡田は無知で想像力もなく、朝鮮人とそっくりだ。


【コラム】民族と親日
(一部抜粋)
日帝が朝鮮を併合した際、朝鮮にはこの併合を恥じる主体の民族意識がなかった。民族は民族意識と同じだ。したがって朝鮮には「民族」がなかった。
姜偉錫(月刊エマージ編集人)
2002.03.07 中央日報

 http://blog-imgs-34.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/002.jpg
2010年7月、岡田は「…国を奪われ、民族の自尊心を傷つけられた人々の心情をよく理解する」と妄言


日韓併合前の朝鮮が地獄だったことは、少し勉強すれば簡単に分かることだ。


【真実】


日韓併合

 http://blog-imgs-34.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/03.jpg
併合前のソウル


併合前の朝鮮は地獄だったといってよい。
玄永燮


「最近朝鮮事情」明治39年(1906年) 清水書店より
(本書は衆議院議員中国新聞主筆でもあった荒川五郎の朝鮮視察記)

五、六人以上朝鮮人がいるうちには必ず一、二人は痘痕(あばた=天然痘が治った後、顔などに残る窪みのこと)の者がある
これは衛生の思想の無い明らかな証拠で、天然痘が流行しても種痘をしてこれを予防するなどの考えも無ければ、またその道も開けていない
だから今どき日本の内地には痘痕面(あばたづら)の人はメッタに見られないけれども、朝鮮では至る所にこれを見ることができる
しかし今では種痘も漸次広まりつつあるそうである。
朝鮮は概して飲料水がよくない上に、朝鮮人の無頓着なることは、雨が降って河川が赤濁っておっても、これを濾(こ)して用いるなどの考えは、更に無い
そこで赤痢じゃの、腸チフスなどの病気がとかく発生しやすい。
(中略)
朝鮮人の不潔ときたら随分ヒドイ
てんで清潔とか衛生とかいう考えはないから、いかに不潔な家でも、いかに不潔な所でも一向平気で、濁った水でも構わないどころか、小便や大便の汁が混じって居っても、さらに頓着せずにこれを飲む
実に味噌も糞も朝鮮人には一所である。
といえば朝鮮に行かない人には、極端の言いようのように思われるかも知れないが、事実その通りで、一例をあぐれば、家を造るに、壁土の中に馬糞などを混ぜて喜んでこれを塗る
その訳は馬糞を混ぜると壁が堅くなって泥が落ちにくいというている。
さらに驚くべく信じ難い程であるのは、朝鮮人は小便で顔を洗い、気目がよくなるというて居る
また小便は腎虚や肺結核や解熱等に有効じゃというてこれを用い、また強壮剤じゃというて無病の者でも飲んでいる
いよいよ病気が重くて生きられまいという時は、大便を食べさすということも聞いている
なんと驚かしいことではないか。
塵や芥(ごみ)がばらけておろうが、物が腐って臭かろうが、食物に蝿などがたかって汚しても、更になんとも思わないで、年中風呂に入るの、湯をつかうのということは無い。

両班たちが国を潰した。
賎民は両班たちに鞭打たれて、殺される。
殺されても、殴られても、不平は言えない。
少しでも値打ちがあるものを持っていれば、両班が奪っていく。
妻が美しくて両班に奪われても、文句をいうのは禁物だ。
両班の前では、全く無力な賎民は、自分の財産、妻だけでなく、生命すらその気ままに委ねられている。
口一つ間違えればぶったたかれるか、遠い島へ流される。
両班の刃にかけられて、生命すら保つことができない。
『血の涙』李人稙(1862-1916)

朝鮮の両斑は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとくふるまっている。
大両斑は、金がなくなると、使者を送って商人や農民を捕らえさせる。
その者が手際よく、金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両斑の家に連行されて投獄され、食物も与えられず、両斑が要求する額を払うまでムチ打たれる。
両斑の中で最も正直な人たちも多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者はだれもいない。
なぜなら両斑たちが借用したものを返済したためしが、いまだかってないからである。
彼らが農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしですませてしまう。
しかも、この強盗行為を阻止できる守令は一人もいない。
『朝鮮事情』マリ・ニコル・アントン・ダブリィ主教

李氏朝鮮の残酷な死刑や拷問に対して、
「こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうということだ
『悲劇の朝鮮』スウェーデン人 アーソン・グレブスト


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(上)日本統治前、(下)日本統治中(ソウル 南大門)


●日本の統監統治時代(保護国時代:1905年~1910年)

李氏朝鮮時代の拷問は酷かったが、1905年に日本の保護国となり、統監統治が始まると朝鮮においても日本と同じようにすぐに拷問は廃止された。

朝鮮での拷問禁止は島村忠次郎(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)が在職中に伊藤博文統監に申し入れて法令となった。
1908年の法令改正によって拷問した取調官は3年以下の懲役と定められた。
これにより、長年続いていた朝鮮での残虐な拷問は廃止となった。


韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。
高い政治道徳を重んずる進歩的であり、円満である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手をとられて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において、三年間に二倍の進歩を遂げた。

宣教師 ラッド博士




●日本統治時代(日韓併合時代:1910年~1945年)

階級による身分差別を撤廃し、両班による搾取・虐待から農民を救い、移住の自由を認めさせ、残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法などを廃止し、女性再婚の自由を保障し、人権尊重などの法治国家の基礎をつくり、学校教育制度を導入し、読み書きを教え、ハングル文字を復活・普及させ、台湾では運動が起きても1~2%にしか許可しなかった改姓名だが、85%の朝鮮人には創氏改名を許可し、鉄道網、道路網を整備し、港の開設工事をし、水力発電所を建設し、重化学工業を興し、緑化政策によって山野を甦らせ、不毛の地を開拓し、河川大事業で洪水を減少させ、水田を倍増させ、世界中から世界一不潔と言われた町々を清潔にし、近代医療制度を導入し、平均寿命を24歳から45歳にのばし、人口を2倍にし、内地(日本)への渡航規制を犯して来る密航者にも寛容に対処した。

 http://blog-imgs-34.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/201008140712535bc.jpg
併合後のソウル




●現在

凍土の狂気が続く金正日強制収容所
「ネズミを焼いて食べ、シラミのわいた毛布で寝る、死ぬよりつらい」 
<木から線路に落ちた栗を拾おうとトロッコを止めた運転手(収容者)を、警備員が射殺した。撃たれた運転手は死んでもまだ栗をしっかり握りしめていました。ある時、男の収容者が空腹に耐えかね、雄牛のテール(尻尾)でつくった鞭を口に入れたら、たまたま警備員に見つかった。彼は叩かれたうえに、便所の腸内寄生虫を食べさせられ、2日後に息を引き取った。悲惨な話は山ほどあります。牛の糞の中に潰れていない豆があると、みんな我先に奪い合います。死人が出ると着ていた服を取り合い、生きている者が着る。人間の住むところではなかった>
脱北者






宮内庁が保管する古文書「朝鮮王室儀軌」などの引き渡しについて「おそらく条約という形になる」と説明。国会審議については「なるべく全会一致となることが望ましい。


自民党など野党は反対に回らなければならない。

 
 
 
 
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